:道徳教育?

政策空間の新刊が配信された。政策について議論しようという気概のある人々がその議論の場を見つけることすら難しい現代の日本において(と言っても当ブログ執筆者は日本に住んでいないのだが)、筆者はこのニューズレターの配信を以前から楽しみにしている。
 だが、仮にも政策にかかわる研究をかじっているものとして言わせてもらうと、投稿が採用される際の基準が甘いような気がしてならない。もちろん、学会投稿誌のように厳密なレフェリー制を採用すべきだとは必ずしも思わないが、少なくとも「原稿」採用基準を明確にホームページ内にかかげることぐらいは、すべきではないだろうか。
さて、今日も1つの投稿に対してトラバしつつコメントを付してみたい。
祖父江塁氏の執筆による「再考:道徳教育―道徳教育で社会を再構築せよ―」という原稿がそれである。以下、引用部分はすべてこの原稿からのものである。
祖父江氏の論点は古びたものだ:教育がおかしい→日本社会がおかしい→昔は違ったんじゃないか?→道徳で復古主義!、というような、90年代に「論座」や「諸君!」を賑わした親父たちの嘆き──彼らは「ノスタルじじい」と蔑まれたのだった──と何らかわるところがない。

  • 社会が急速に発展し複雑になり、その影響を受けて狭間に苦しんでいる人たちがいる
  • 授業崩壊の様相が見受けられる
  • 小中学生に以下の傾向が見られる(そして祖父江氏はこれらを問題だと感じている)
    • 敬語が使えず、礼儀がない
    • 思いやりがない
    • 堪え性がない
    • 勉強をする習慣がついていない
    • 私語が多い
    • 飲食が見受けられる
    • 暴力を振るう
    • ケータイをいじる
    • 平然と立ち歩く

こうした現状認識は、ほぼ的確なものであると言える(ほぼ、と限定的副詞を使ったのは、私は必ずしもこれらが悪しき「症候」だとは思わないからだ。むしろ、駆逐されるべき低劣な質の教師に対して反抗を示すのは当然のことだ。教師はいまや、民間企業から相手にされない学生がしがみつく単なる一産業でしかない。祖父江氏はこれらのネガティブな「状況に歯止めをかける」べき教師を子供を教導する資質を備えた聖職だと楽観的に前提し過ぎている。教師になるのに資質は必要ない、彼らが持っているのは教職という「資格」だけである。)。
さて、この先の処方箋を提示する段階になると、「何が必要なのだろうか」と問う祖父江氏のアクロバティックな議論が開始される。祖父江氏の議論の要点を取り出してみよう:

  • 核家族化が進み、“知の再生産”リソースとしての高齢者が家庭から少なくなった
  • 共稼ぎ夫婦や片親の増加による親の不在も併せて、家庭から大人が消えつつある
  • 昼の時間帯に大人が家庭に不在のため、道徳教育が行われにくくなってきた
  • 家庭と学校の距離は遠くなることで、[大人は]学校教育に非協力的になっている
  • 家庭から様々な機能が減り、その分を大人たちは学校教育に丸投げして求めるようになった

これらの議論の最大の「穴」は、一昔前のように、家庭や学校や地域で大人が子供にしっかりと「道徳」を植えつけていれば、こんなことにはならなかったという幻想にしがみついている点である。共稼ぎ夫婦の数や片親家庭、祖父母と別居する家庭の増加が「大人の不在」につながり、ひいては道徳の崩壊に結び付いたという議論を展開するには、これら家庭からの大人フライト(/逃避)の増加と現行の道徳崩壊とのあいだのタイムラグを説明できなければならない。70年代以降、家族形態の変容は眼に見えて明らかであったが、90年代まではこれらの「学校崩壊」は顕在化しなかった。祖父江氏の説明ではこの時差が説明できないのである。
 また、道徳がいったいどのように子供たちにとってのメリットとなるのかについての説明にも、祖父江氏は失敗している:道徳とは子供たちのためのものではなく、あたかも、すでに人生中盤・後半の安泰期を謳歌しようとする大人たちが、子供によって迷惑をかけられないようにするための「首輪や足枷」であるかのように定義されているのだ。

  • “動物のような“とは人間社会に適応できないことを指し、無責任な放任主義現代社会に見られる諸問題を生産している。そして、それは社会が構築されていく動きを阻害する“錆(さび)”のようなものである。
  • “錆(さび)”を除けるための“潤滑油”こそが道徳で、社会への適応方法、参加意義を問うことで、将来的に彼らの社会参加を促すだけでなく、合意を形成しやすい社会を構築し得る。
  • 道徳知識は感情思考の根本となり、諸問題に対する意識の源泉となる。漢字自体を知らない小学生に著作権概念は理解させ難いが、“盗むな”“人を傷つけるな”ということは、道徳体験的に理解可能である。

祖父江氏は、次の一句を自身に問うことからはじめるべきであった:「果たして、その崩壊が嘆かれているところの当の道徳とは、守るにたるべきものなのかどうか」、と。教師や親や周囲の大人ですら必ずしも「道徳」を十全には体現していないというのに、ここぞとばかり学校を使って子供らを、大人にとって御しやすいように調教・洗脳しようというのは安直な議論でしかない。 大体、上の引用のなかですら議論は破綻している:盗むな・傷つけるな、という道徳がある種の先験的な心理(/真理)であるかのように祖父江氏は論じているが、そうであれば子供らがその先見的道徳指令から逸脱することには、後天的・かつ・合目的的な理由があるはずである。つまり、現代社会に首尾よく適合しているのは子供らのほうであり、教師や親の価値観やシステムの疲弊にこそメスが入れられるべきであって子供らをブレインウォッシュし直すのは徒労に終わることを運命付けられた愚行である。(祖父江氏もこの点は理解していて、道徳の復活を叫んでいたはずの議論の最終部ではなぜか、──授業参観回数の増加や、副担任性の導入など──道徳によって充填されるはずの「質」よりも、「量」の充実や教育「システム」の改良に議論が逸れてしまっている。もちろん、逸れた方向のほうが的を得た議論になっているのだが。)

以下、別な点についてもコメントしておく:祖父江氏の議論では、情報化社会の進展と教育の荒廃とが連動して生じている現象だと議論されているが、──少なくとも当ブログ執筆者にとっては──意味がまったくわからない。

  • 情報処理能力が増大したことで社会が急速に発展し複雑になり、その影響を受けて狭間に苦しんでいる人たちがいる
  • 社会に溶け込んで生き残っていくための適応能力と実力がなければ彼ら[授業崩壊に加担している子供]は、そして彼らで構成される情報社会は、どうなるのだろうか
  • 皆で住みよい情報社会をつくる上でも、教育現場や家庭といった大人達で道徳教育を見つめなおすべき

情報社会、という言葉を祖父江氏は多用しているが、情報社会学の基本的な公式と氏の議論が真っ向から対立してしまっているのは初歩的なミスではないだろうか。情報化の進展は、個人が獲得できる情報「量」の幾何級数的増大をもたらす;にもかかわらず、個人の情報処理能力は、せいぜい、算術級数的に改善されるのが関の山である。だとすれば、この時代に個人が獲得すべき情報リテラシーは、幾つかの視点を相対的に比較考慮するための作法であって、金科玉条的な唯一の教義体系を僭称する「道徳」を摺りこむことではないはずである。