:Tokyo / Osaka

明治元年(1968年)正月、薩摩の大久保利通は大阪遷都を考えていた。
司馬遼太郎に言わせると(『この国のかたち 3』p:182-6)、この判断は単なる、「当座の現実認識から出た一種の暫定案」でしかなかった。
大阪は当時、京都からの遷都に都合がいいとはいえ、路も狭く港も軍事用に整備されていたわけではなかった。
  この大久保の判断を翻し、江戸遷都を決意させたのは、とある一介の書生からの投書であった。曰く、最重要の地である蝦夷地からも近く、軍艦修復の可能な横浜も近く、大阪に遷都した場合に霧散するであろう江戸住民や資産も活用できる、と。甚だ明快な論理であったと司馬は言う。
  この一介の書生が、実は、明治郵便制度の父、前島密であったことを大久保が知るのは、明治九年になってからのことであった。まさに「稀代の制度立案家」と言うにふさわしい。