:Psychology快感原則から快感係数へ

Korobokkuru2004-12-16


The Guardian紙にて、興味深い記事を読んだ。心理学脳科学の分野の新しい知見を総合し、読者の啓蒙を図る意図のもとに書かれたこの記事は、その筋自体は極めて陳腐なものなのだが、そこで傍証として引かれてある科学者の研究手法に、目を引くものがあった。


フロイトはかつて快感原則を行動原理とする人間像を提出した。鬱屈した欲求の屈折として心理を理解しようとする精神分析学派であれ、あるいはそうした欲求を形成するその土台へと照準するユング心理学であれ、フロイト以後、「快感」あるいは欲求は、1つのメルクマールとなっている。


だが、フロイトの快感原則は、大きな欠点を抱えてもいる。いったい、どうした構成「要素」によってその原則が駆動しているのか、不透明なのである。たしかに、それは、原則としては総体的に心理を説明しうる。臨床や治療に特化した目的からするならば、この原則による解釈は、その成分はともあれ効用はある薬に等しいわけで、理論的に磐石であるかに思える。しかし明らかに、反証不可能であることと反証の可能性を予め封じてしまうこととは、二つの違った事態である。

脳科学神経科学の分野においては、しばしば、人間の基本的な特徴を抉出するために、脳の一部に──先天的と後天的とを問わず──障害を抱えた人物を観察するのだという。この手法は、人が、何を欠いた場合にどうなるのか、に注目したものである。従来の、人は、何を有している場合にどうなるのか、が道徳的べき論に収束しがちであるのに対し、いわば参照地点をゼロよりも遠い位置に付置するという、前提の絶対零度からの考察を開始しているのだ。


痛みと金銭、ゲームへの没頭と不快な室温、好物のチョコとその飽食。これらが、トレードオフの関係に変質するその臨界点を見極める作業は、極めて示唆的だ。これらの項目は、初めから、それ自体として対立項になっているのではない。実験におけるパラメータの操作を通じた「量的」な変化が、ある時点で、選好や好悪の変調をもたらす「質的」な変化を帰結するのだ。


これは、フロイトの快感「原則」と比べた場合には、一般理論としてはまだ器が小さすぎる話なのかもしれない。しかし、一般理論に大成するその可能性においては、フロイトの説明よりも優れているものだと私は思う。言わばこれは、快感「係数」を算出する方法なのだ。

社会科学一般の中で、ただ1つ、経済学のみがずば抜けた発展と体系化を成し遂げえたのは、総論としての「原則」の発見が、それらを構成し駆動させる「係数」の発見に裏打ちされてあるからである。政治学社会学、人類学など他の領域は、前者を蓄積することには成功しているが、それを後者のような分解可能であるとともに再組み立てを許す「部分」にまで解体することに成功していない。