ネット右翼の文法【1】

現代の日本においては、右翼と靖国参拝支持層とが、ほぼ一致してしまっている。宮台真司的な意味での「右翼」概念に拠るならばこの一致は必ずしも自明なものではないのだろうが、さしあたってこのカテゴリーではしばらく、靖国参拝支持の「論理」の解析を行っていきたいと思う。
記念すべきエントリー第一号は、麻生総務相に登場してもらおう:

麻生総務相「(戦没者は)靖国で会おうという前提で命を亡くしている。追悼施設をつくることは、靖国をなくすこととは一緒ではないのではないか」と述べた。
Source:Asahi.com「靖国とは区別」 閣僚ら、新追悼施設で相次ぎ見解

【1】:死者の約束は絶対である
↑これが、今日取り上げる文法である。性格には「語法」とか「修辞」というべきなのかもしれないが、社会学現代思想ではしばしば、フーコー的な「言説」一般を「文法」と言うことがあるので、このブログでもその例にならいたいと思う。上の麻生氏が拠って立つ、この、「靖国で会おう」と言って死んでいった者たちを悼むための施設としての靖国の必要性を説く議論は、一見、もっともなものに思える。だが、ここで問おう:なぜ死者との約束を──というよりこの場合は死者同士が勝手にした約束を──反故にしてはいけないのか? 靖国から立ち退いてもらうなり、引っ越してもらうなり、してもらえばいいではないか。
右翼の文法では、この、上の問いに対して、感情的にしか応酬することができない:「死者を愚弄するのか/軽んじるのか」「日本の伝統的な死生観に反する」云々。はっきり言おう:死者を靖国に奉ること・と・日本の伝統を尊重すること、とは、何の関係も無い。まして、百歩譲ってそれが伝統的な死生観と幾分か親和的であったにせよ、なぜ、いつまでも後生大事に「伝統」の桎梏に縛られ続けなければならないのか? 帯刀しチョンマゲを結いつつ「伝統」を叫んでくれるかっこいい保守派なんて、さっぱり見たことが無い:自分にとって都合のいい「思い込み」を伝統だと強弁するのは、いい加減やめてほしいものだ。