[Policy]:中国の反日感情

以下、引用は政策空間ホームページより。
Source:中国は民主化しても反日であり続ける Akutsu, Hiroyasu 

阿久津氏は、中国はこれからも──期待される程度の民主化が達成されたあとでも──反日的であり続けるという。当ブログ執筆者としては、これは特段目新しい見解だとは思わないが、ニューズレターの編集参加者の1人のブログではこの議論が「個人的に『お勧め』な原稿」として紹介されてもいる。阿久津氏の主張を支える論拠は、以下の3つである(勝手ながら番号を振らせていただいた):

  • 【1】中東を見よ:反米感情は根強い
  • 【2】民主化することで、平和裏にデモ(などの反日行動)ができるようになる
  • 【3】韓国を見よ:反日感情が国内政争の格好の具になる

阿久津氏の結論は妥当であると私は思う。だが、議論の運びがまずい。
【1】については、阿久津氏はパレスチナ問題が解決に向かうにつれて反米感情も霧散するだろうとの見通しを口にしているが、それならば当該地域随一の民主化ぶりを達成しているトルコにおける反米感情をいったいどう説明するというのだろうか。むしろ、トルコと中国の事例を、──あるいは韓国イラク、アフガンなどの新・民主制樹立国も含めて──整合的に説明するための結論は、○○国は『民主化しても』反米・反日であり続ける、ではなく、『民主化すればするほど』反米・反日であり続ける、というレトリックではないだろうか。
【2】がこれら三つのうちではもっとも説得力のある論拠である:共産党政権からの検閲や統制が緩くなることをもってして民主化というのだとすれば、民主化こそが中国の反日感情をその桎梏から解き放つことになるだろう、というのだ。なるほど、もっともな議論である。だが、これもやはり事態の一側面にしか光を当てることができていない。共産党ビッグブラザー的監視が及ばない状況でこそ反日感情が溢出するというのなら、なぜ、多くの中国人たちが検閲の心配なく活動できる留学先や移住先で──つまり海外諸都市で──大規模反日デモが生じないのだろうか? この疑問に対する回答は明白である:中国の国内状況がデモを抑止していると同時に、また、デモを誘発するような要素も国内親和的──メディア報道など──であるのだ。であれば、民主化の進展度合いにかかわらず、その誘発の役割を担う導線へと策を講じることによって反日行動は封じ込めることができるはずだ。
【3】について。筆者としては、韓国では反日感情が国内政争の具になったことは一度もないと見ている:すべての政治家が、多かれ少なかれ反日的であり、特段代わり映えのしない反日表明をすることは何らその政党なり政治家のスタンスに利するところがないのである。反日感情が「国内の政治勢力の間で頻繁に利用されてきたという長年の歴史がある」というよりは、──先の谷内次官発言が二週間後のメディア報道によって初めて大統領府の関心事項になったことからも分かるとおり──反日感情を利用することによって政府を躍らせているのはメディアの側である。
阿久津氏の議論は、──そのスタイルに特徴を見出すことができるとすれば──、行政府過剰権限論とでも言うべきものである:反日感情の噴出の程度は、行政府の思惑によって自在にコントロール可能だという前提が上記【1】〜【3】のあいだには敷かれている。たしかにパレスチナ問題が解決すれば政府レベルでは反米の見解を表明する機会は減るだろうし(【1】)、また、共産党の締め付けが無くなれば反日感情の表明は容易になり(【2】)、民主化したのちの中国でも時折反日感情によってレバレッジを効かせようとする政治があらわれることだろう(【3】)。だが、これらの動きはどれも、それが表明された時点でフルストップされ永続的な静止画が得られるものではない。それを抑止する環境が整うこともまた民主化のプロセスとその帰結のうちに期待できるであろうし、政府内の人員が入れ替わっていくことでそもそも【1】〜【3】の行動パターンそれ自体が変質していくことも想定可能である。

阿久津氏は、中国の反日感情に対して、日本は「耐える」のだという言い方をする。この箇所は読んでいて特に違和感があった。なぜ、近隣諸国からの反日表明に「応じ」たり、それを「解決し」たりすることができないのか? なぜアジアや欧米からの声に、黙って受身でいなければならないのだろうか?

  • 日本はその時まで中国の反日ナショナリズム耐え続けなければならない
  • 時間と我々の忍耐が問題を解決する
  • 我々に強いられる忍耐はさらに大きなものとなることを覚悟しなければならない

日本は戦後60年、謝り続け、反省し続けてきたのだとされる。私は、ここまでは多くの(ネット)右翼たちと認識を共有することができる。だが、次のステップで彼らとは大きく踏み出す方向を違える。ネット右翼たちはこう続けるだろう。「謝ってきた。だからもう謝る必要はない!」、と。こうした態度からは、中韓からの非難の一切を「内政干渉」「歴史カードゴリ押し」として切り捨てる内閉的態度が帰結される。
私は、謝り方をトランスフォームすることにおいてのみ活路が開けるのではないかと考えている:アメリカがドルを基軸通貨として世界主要国の経済の血管に自身のコントロールを及ばせることに成功したように、日本は、近隣諸国の体内と記憶とにすでに染み渡った反日感情をコントロールすることで、「攻め」の謝罪に転じることができるのではないか、と考えているのだ。医療の比喩を借りるなら、しばしば人は、健康であればあるほど不健康になることをおそれるものだ。0.5キロ太ったことを気にする人間は、大概が標準体型の人間である;他方、20キロ痩せてもなお130キロを越えているがこの減量で精神的安定を得ている人間がいたとして、客観的には前者よりも後者のほうが圧倒的に不健康であると見なされるだろう。 民主化による反日感情の逓減を期待しそれを傍らで見守るのはしばしば、標準体型の人間が体重の増減に一喜一憂することに似ている:ならばいっそ、こちら側から積極的にその体重をマネージすることを戦略的に目指すほうが効果的ではないだろうか。たとえそれが巨躯にとっての微々たる減量であるとしても。民主化を待つまでも無く、──彼らがこちら側から見て尚(そして客観的基準に照らしても)、不健康な状態ではあったとしても──彼らに精神的満足と安定をお膳立てし、処方してやることはできるのだ。