:江戸期の大阪

司馬遼太郎は江戸期を通じての大阪の経済的「沸騰」に触れつつ、その特色を分析している(『この国のかたち』第三巻:198-201)。

徳川幕府は、この太閤の旧都の商権を過剰なほどに保護した。その証拠として、幕府瓦解とともに保護が消滅し、このために、大阪が急速に衰え、維新後人口も激減した。
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 大阪は、都市としては江戸より小さかった。人口も、江戸が百万(町人はその半分)を越えたろうといわれる十八世紀初頭で、大阪は三、四十万であった。

この稿での司馬の議論は、大阪の経済的興隆と、その商品経済を思想として蒸留しつつ日本全国に循環させていったメカニズムの一端に触れて見せることに主眼が置かれてある。司馬曰く、「大阪のおもしろさは、仲基のような人文主義者を生みつつも、十八世紀の一世紀足らずで衰弱したことである。思想的創造力の衰弱と経済の沸騰の鈍化は、一つのものであるらしい。(ibid:206) なるほど、今日の経済大国アメリカ・中国・インドがいずれも知識集約のレバレッジを効かせて覇権を争いめぐる姿と、その一方で凋落を続ける日本の姿にも、そっくりと当てはまる分析ではないか。