教科書問題

日本でも自治体レベルでつくる会の教科書が採択されるなど、イデオロギーや党派性をどこまで教育に反映させることが許容されるべきなのか、論議の機運が高まりつつある。
アメリカでも、教科書・カリキュラム問題の議論が生じている:キリスト教的な価値観を、どこまで子供に学校で教えるべきなのか、世論が割れているのだ。
テキサス州では、2006年の学校カリキュラムに聖書学習の課程を導入することがOdessaの委員会で決定されたという。同様のBible Curriculumは、いまや17万5000人の生徒、312の学区、37州で使われている(Source: NYT Bible Course Becomes a Test for Public Schools in Texas, Aug 1, 2005)。
この聖書カリキュラムに批判的な陣営は、次のような活動を反論の矛先に据えている:【1】カリキュラム上の「間違い」を指摘する;【2】政教分離の原則を主張する。
この二つは、現在の日本の靖国問題で参拝反対派が拠って立つ論拠とまったく同一のものである。参拝擁護派の歴史観が「間違って」いるとか、政治指導者が特定の宗教施設に参拝すべきではないといった類の、巷間に溢れた議論がそれである。
私は、この反対派の反論の仕方では──日米両社会において──反対派の敗北が約束されてしまうのではないかと危惧している:なぜなら、賛成派が「間違っていてもいいじゃないか/絶対的に正しい価値観に基づいた教育など可能なのか」と開き直る戦略に出た時に、反対派は応戦の弾薬をすでに消耗しきってしまっているからである。